
私は小学生から30歳まで、バスケットボールを続けてきました。ポジションはポイントガード。プロの選手を目指していました。
高校の頃には、膝はもうボロボロでした。サポーターで誤魔化しながらプレーを続け、高校1年では膝の痛みで試合に出る機会を失いました。当時の私は、安静にする以外の道を知りませんでした。部には監督がおらず、メンバーも自分たちで決めるチームでした。体を根本から診てくれる人にも、導いてくれる指導者にも、出会えなかったのです。
高校2年で、1年間アメリカへ留学しました。練習量が減ると、背が伸び、怪我も減りました。スピードと3ポイントシュート、ディフェンスの運動量で勝負し、アメリカでもそれなりに評価されましたが、大学チームの入部テストでは「この体格だと厳しい」と言われました。178cmあっても、向こうでは小さい選手です。
30歳で競技をやめたのは、仕事の忙しさと腰痛のためです。
社会に出てからは、通信の営業会社を経営していました。営業は得意でしたが、情熱は持てませんでした。そこで裏方に回り、コンサルタントの営業代行とプロデュースを始めました。人の価値を形にして届ける仕事に、手応えを感じました。
転機は、PLT協会の只野拓也先生との出会いです。私の腰痛を楽にしてくれた人でした。続いて、EUROの沖田浩造コーチに出会いました。こんな指導者がいるなら、世に広めたい。EUROは強度で勝つことを急がず、技術と判断を磨きながら、体の成長を待ちます。アメリカで私の体に起きたことと、同じ考え方でした。
数あるプロデュースの仕事の中で、ここまで自分の事業として育ててきたのは、PLT協会とEUROの二つだけです。気づけば、高校の頃に出会えなかった人たちに出会えたことが、情熱を注いできた理由なのかもしれません。
この人たちを広めたいと始めた会社は、治療院や店舗を自ら運営し、育成の場とクラブを持ち、アパレルを自分たちで作って売っています。どの事業も、自分たちの手で作り、自分たちの力で広めてきました。
怪我と体格に苦しんだからこそ、出会った人の価値が分かりました。人の評価や流行ではなく、自分が信じたものを信じる。それを、これからも自分たちの手で届け続けます。
信じたものを、貫く。